瀬戸内の島々を舞台にして開催されている「瀬戸内国際芸術祭2013」。その内の一つである小豆島に行ってきました。トテモ、トテモ、トテモ暑かった…。数ある開催島の中で、なぜ小豆島にしたのか、理由はいくつかあります。まず、一番大きな島(旧藩政の時代は二つの藩に分かれていたくらいの島)なので作品も多く、マイカーで回ることができたからです。この狙いはたいへん正解で、徒歩とバスだけで回っていたら、私の体力では熱中症になっていたと思われます。
もう一つの理由は、「現代美術の聖地=直島」といわれるようにイメージの固着した島ではなく、島の将来とアートとの関わりがどのように作用するかを見られる島、地場産業などある程度の潜在力を持つ島、公式ガイドブックで写真撮影OKの多い島などを選んだからです。時間の都合もあり、イベント関係は抜きにして作品を見て回るだけでしたが、立派な美術館で粛々と作品鑑賞することを強いられるのとは大違いで、会場受付のボランティアの方々だけではなく、時には出会った地の人々と気楽に話をしながら作品に触れられる心地よさが、小豆島にはありました。
この芸術祭の目的や性格からいっても、島の景観・伝統・文化・産業などとの接点を、どの辺りに持つかをテーマに、作家各自がクリエーションを展開することになっているのだと思います。そういう意味では、必然的にインスタレーション作品が多くなり、コラボレーションのオンパレードです。自然景観との、建物や空間との、町並との、伝承との、産物との、島の人々との、海外作家との…、作品はさまざまなコラボレーションによって完成度を高めている、もしくは、それに依ってこそ始めて成立しているように感じるものもありました。そしてそれは創造性の純度としては少し不満ではあっても、そのことはこういう試みの現段階では、とても大事なことのように思われます。
芸術には独自性が求められると共に、それを縛る定義もないため、いろいろな傾向の作品があるのは当然のことです。真摯なもの、独善的なもの、ユーモラスなもの、よりファインアートなもの、デザイン的なものなどがさまざまに在って、どれが作品として優れているかについては、個人の好みもありここでは触れないことにしますが、会場を巡りながら、別の面で感じたことを書きます。
作品が設えられている場所の多くは、既に使われなくなった建物や倉庫ですが、学校や幼稚園などの教育施設で十分使用に耐えるものも多く、作品が印象的であればあるほど、ほんの少し前までこの場所に溢れていたであろう歓声に想いが向かってしまうのでした。もとより、この芸術祭開催の狙いが、島の過疎化、高齢化によって失われた活力の復元を目指したものである限り、その現状を再確認しただけだと断じられれば、返す言葉がなくなりますが、しかしこの状況は、この瀬戸内の島々だけではなく、あまねく日本国中に存在する、日本の行く末をどうするかという大きな課題と同根なのです。そして、どうなればよいのかという結果だけは、困ったことに明白で、つまりはこの学校や幼稚園にかつてのように子供たちの元気な声が戻ってくることに尽きます。
そのためにはどうするか、そんな大問題をここで安易に述べることはとても出来ませんが、例えば、学問や技術を含めた広い意味でのクリエイティブな発想で、地場の特色を再構築し、一極集中ではなくそれぞれの地方が、日本のみならず世界に通用する魅力と活力を根付かせ、それを大事に育てパワーを拡大し、若い力を中心に老若男女が希望をもって住める、かつての循環型の町や村を取り戻す。などと通り一遍に言葉では書けても、ことはそんなに簡単には行きません。しかし、この芸術祭の作品制作や運営に当たって、アーティストのクリエイティブ発想に触発され、多くの地元の人々が関心をもって大きな協力を行ったことを聞くにつけ、そのコラボレーションの過程を通じ、次の何かが生み出される原動力が芽生えつつあるように感じるのは、希望的に過ぎるでしょうか。おそらく制作者が一番それに気付いているのではないかと思いたいのです。そういう面でこの芸術祭は意義深く、真摯に催しを計画・推進されている方々に敬意を表したいと思いますが、他の島々、他の開催会場ではどのような印象を受けるのかは分らなく、願わくばクリエイティブ愛好家だけが喜ぶような芸術祭であってほしくないと思います。また祭りを一過性に終わらせず、次への胎動を育て準備し蓄積するために3年は丁度よい期間であり、トリエンナーレ形式であることは、たいへん意味のあることだと思います。
クリエイティブな発想力が、間接的にしろ、人々や町の活力再生の足がかりになるのなら、私たちもデザインを通じて何らかの形で役立つことができるのではと感じてつつ、最後にひとこと、会場受付のボランティアの方々、たまたま会話を交わした島の方々から、親切で知的な印象を受けることを特記したいと思います。