寒梅に思う。

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「雪と寒梅」 。いかにも日本画にぴったりのテーマなので、落款風のものを入れてそれらしくコラージュして遊ぶ。
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今年は雪がよく降った…。「寒梅に雪」というシーンは絵になりそうなのに、関西ではここ近年はあまり見なかったように記憶している。だがしかし、今年は、それが見られた…。

例年、周囲は冬のくすんだ色だけしかなく、まだまだ寒い季節に、そこだけが際立つような紅の色を見事に見せる梅の木が近所にあって、とても印象的で、それを見るたびに、来るべき春をまざまざと実感できて心が浮き立つのが常でしたが、今年はさらに雪がそれに化粧をして楽しみを増やしてくれました。

たしかに寒梅は、咲く時期といい風情といい、厳しさのなかで光に満ちた明日を感じさせるパワーを秘めているように思われます。ところが、そう感じるのは私だけではないようで、同じような心根からではないかと思われる例があります。

昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の登場人物のひとりで同志社の創始者、新島襄の句に「真理似寒梅 敢侵風雪開(真理は寒梅のごとし 敢えて風雪を侵して開く)」という漢詩があります。同志社の方々には馴染みの深い言葉で、キャンバス内の碑文にもあるそうですが、句の意味するところは、風雪のなかで凛として咲く寒梅の姿になぞらえ、厳しい外圧を受けても敢然と守り通すべき真理というものの本質を語っているのですが、新島襄が、真理という深遠なものを比喩するのに、寒風のなかに咲く花というだけで紅梅を当てたのではなく、そこには紅梅の持つパワーを愛でる気持があったからではないかと思えてなりません。

ところで、哲学者・思想家・文豪など偉人といわれる人々が多く輩出した時代とは異なり、最近では「真理とは何か」ということを、真っ向から論じることが世相としてなくなったように思います。真理などということを真面目に取り上げて話すことを、「なぁーんか変。あんまり格好よくない…」というように感じる風潮があるのかもしれませんね。

さまざまな日々の行動や生き方を通じ、自然体で真理というもののアウトラインを体得するような現代のスタイルは、それはそれで良いとは思いますが、たまには、ことさらに「真理とは何か」ということを、一人きりの時にでも、考えてみるのも良いのではないでしょうか。