ココロの窓。

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「ココロ」とはなに?…、ココロはどこにあって、その仕組みはどうなっているのだろうか…。

幼児が、何かに気をとられているように視点の定まらない顔をしている時がある。そんな時に彼のココロに浮かんでいるのは何なんだろう。何かに気をとられたような顔をすることは大人でもあることだが、大人の場合だと,その時ココロに去来にしているのは、ほとんどが経験した事柄や映像などだろうと思うのだが、3才に満たないような幼児の場合は、ほとんど経験もないのだから、単にボンヤリしているだけなのだろうか。

私の勝手な思い込みかもしれないが、そんな時の幼児は、眼前に生き生きとして展開されている何かを見ているのではないだろうかと思うことがある。そんな顔をしている時があるのだ。その時、彼のココロはどこにあって、どう働いているのだろうか。

現代科学ではココロをつくりだしているのは「脳」であるとしている。それに異論はないし、多くの面で脳が大きな役割りを担っているだろうとは感じる反面、そもそもココロといっても、感覚、記憶、感情、意識など多くの意味を含むので、それらが全て脳だけに由来するのだろうかと、しっくりしない気分もする。ある大学教授の曰くに,その教授の学生(文科系)の入学時のアンケートでは、彼らの半数がココロは心臓にあると考えているらしく、それも無知や思い違いからではなく,感覚としてはかなり本気でそう考えたいと思っているようで、「学生がココロと脳を一緒にしたくない、百歩譲って、精神は脳に譲っても、心は心臓にとっておきたい、と感じるのは、案外当たっているのかもしれない」と書かれているのを読んだことがある。気持ちは分かるし、人間には「魂の問題」など未解明で不可知の部分がまだまだあるから、ココロの全てが脳に依存し、その仕組みが脳の研究だけで解明されるだろうか、と私も思うのだ。

これは私見にもならない科学に門外漢の人間のたわごとと思っていただきたいが、あえて書くと、私は、ココロを形成する記憶や想いや情報のすべてが脳だけに蓄積されているとは考えられず、ある種の記憶や情報は、次元の違う空間に保存されていて、脳はそれとコンタクトする機能を担うが、そのコンタクト能力は、世間での経験が増えると逆に減少する。つまり大人より子供の方がその情報にコンタクトしやすく、天才といわれる人も子供と同じでその能力が高い。というものである。

実際の脳科学でも,大人と子供の脳では仕組みが正反対になっている事柄があるらしく、今後もっと意外なことが見つかったら面白いだろうなと,無責任な空想を楽しんでいる。

いづれは科学がそれらを解明してくれるとは思うのだが、脳の研究は、物理学などの科学水準から見れば、まだまだ研究の緒に就いただけのようなものらしく、脳による記憶のしくみは解明できているようだが、意識とは何か、ココロはどうして生まれるのか、さらに心の機能である創造性のメカニズムなどについては、ほぼ何も分かっていないらしく、まだ先は永いように思える。

ところで、最近、「デザインシンキング」という言葉が再注目され、いろいろな局面で話題にされている感がある。デザインシンキングとは、【優れた創造能力を持つ人物の感性と手法を用い、人間の想いを軸にして、革新的な顧客価値や市場機会を創出すること。もしくはその思考実践形態】と私は理解しているが,平たく言えば、《人のココロをテーマに、天才だからできるような画期的で市場性の高い創造を、多くの普通人がコラボしてミスを抑え、推敲を重ね生み出す方法》ということになるのだろうか。

ということになると、上で述べている事柄との関連から見ても、最新の脳科学でも未解明の部分を多く含む難問にチャレンジすることであり、何かとココロの歪みが取り沙汰される現代社会においては意味のある行為であり、もつれた糸をほぐし解決を探る効果的な試みとは思うが、それはそれでなかなか難しいことが多いだろうと思う。多人数のコラボがあるから一応の形や成果を見ることができるかもしれないが、流行りで取り上げ、単なるマーケティング手法に終わることのないよう期待したい。

私の手に余る、脳に関連する難しいテーマを書き出してしまったことを後悔していますが、ココロと創造に想いを馳せながら、幼児のように、心象の窓に映る事物を無垢に見つめたいと願っています。そして、それをいろいろ試みながらイノベーションを掘り起こし探っていくのがデザインシンキングではないかと思っています。