冬枯れイマジネーション。

冬のこずえが見せるモノクロームの描線は、さまざまなイメージを呼び起こす。

ごく普通の気分から言うと、余りにも寒い気候が好きではないのが、人情の一般だろうと思う。しかし、冬の季節の、特に風景については、必ずしもそうとも言えず、雪景色などは見た目には「きれーぃ」と感じる人は多いだろう。もちろん雪は触れれば冷たいし、雪道は歩きにくくゴム長でも履かないと足先が濡れてゾクゾクしてくる。つまりは視覚的な印象と体感的な現実とが一致しないことがあるのが、冬の季節の特長かなと、私は思っている。寒いのが苦手なので私がそう思うだけで、寒い国の人は住めば都で、キーンとした寒気を心地が良いと感じるのかも知れない。しかし、何かの手記で北欧のあるアーティストは冬がとても嫌いでひたすら春を待っていたと書かれていたのを見て、そりゃそうだろうなと思った記憶がある。

ことほど左様に、私も春を待つタイプではあるが、とはいえ冬の景色で好きなものもあり、その一つに「冬枯れのこずえの連なり」がある。小山のいただきを遠望した時にシルエットで見える霞むような繊細な樹影は、エッチングの描線のようでもあり、またモノトーンのボケ足から山水画のように幽遠に感じられる時もある。人によっては、往年の名画「第三の男」のラストシーンを思い出すかもしれないし、ベルナール・ビュフェの描画タッチを連想するかもしれない。はたまたこれは私だけの連想かと思うが、十姉妹という家禽に梵天という種類があって、何故かその頭のてっぺんの羽毛を思い浮かべることもある。

いずれにしても、冬枯れのこずえは、モノクロームが似つかわしく、モノクロの映像は、ダイレクトに事物を訴求するカラー映像に比べると、むしろイメージを増幅する作用の方が優れているらしく、いろいろなものを連想させてくれる。

そう言えば、白黒写真の雪景色はモノトーンの典型と言えるのだが、特に雪景色を実際に見た場合やカラー写真で見る場合には、不思議と「きれーぃ」という直裁な感嘆はあっても、あまり連想を呼び起こすことがないように思える。何故そうなのかについて強引な説を展開する。映像というものは“光と影”で構成されていて、光が主役のものよりも影が主役の映像の方が何かを語りかける力が強いものだが、典型的な雪景色の場合の主役は「雪」つまり「光」であり、脇役の「影」のウエイトは低い。しかもこの主役の雪は無機物でもの言わぬ存在である。一方、冬枯れの景色の場合、主役は「影」で表現される「樹々」で生命のあるものだ。脇役の「光」は空白な背景でしかない。だから主役の生命を持った樹々が、さまざまな想いを語りかけるのである。「春よ来い!早く来い!」とか「こずえの先の春のパワーがあなたに見えますか?」とかなどなど…。影が語りかける時、人はそれに反応して自分の潜在意識からイメージをさまざまに膨らませることができるノデアル。